俺はもう本気だしてるんだけどなぁ。

~かーりーの、ブログ~

維新150年、興味津々!?

甲突川沿いにある、”明治維新150年!”と書かれているいくつもの幟(のぼり)が今日も風に吹かれたなびいております。

そう、今年は明治維新から節目の150年!

鹿児島市内は何かと盛り上がっております。(、、、多分)

 

というわけで、西郷どん大河ドラマ館に行って来ました。平日にしてはけっこう人がいました。(一番人だかりができていたコーナーはドラマ出演者のサイン色紙が飾られてるトコロでしたが、、、)

 

ドラマ館を出て甲突川沿いを行くとほどなくして維新ふるさと館に着きます。明治維新を中心に、薩摩藩や日本の歴史についての展示を行っている資料館でかなり充実してる施設です。

その道中に西郷隆盛生誕の地が、そして維新ふるさと館を過ぎたすぐの所に大久保利通生誕の地があります。

西郷さんと大久保さん、ホントご近所だったんすね、とリアルに実感できます。

 

西郷さんや大久保さんが生まれ育った加治屋町という所、当時はわずか70数軒程度だったそうです。この狭い地域から西郷さんや大久保さん以外にも幕末から明治期にかけて多くの偉人が輩出されました。これは驚くべき事です。

 

その要因はいくつか考えられますが、一番はやはり教育にあったのではないかと思います。薩摩藩独自の教育制度”郷中教育”、「学びつつ教え、教えつつ学ぶ」。

知の巨人ピーター・ドラッカーも「人に教えることほど、勉強になることはない」という言葉を残しています。人に教えるということはまずはしっかり理解していないといけません。そして教える側は復習にもなるし、教わる側からの質問などで様々な気付きがあったり、考えが深まったりと、学ぶということに関してかなり理にかなった制度だったのではないでしょうか。

そして郷中教育の規範となった日新公いろは歌です。これにより武士としての精神が養われました。幼いころからこれを暗唱させられたようです。まずは覚える、意味は分からずともソラで言えるようになるまで覚える。意味はその後。一見非効率のように思えますが、血肉にするには一番いい方法です。

 

これらをベースにしてさらに各々が独自に勉学に励んでいったわけです。

 

本屋に行くと当然”西郷どんコーナー”が設けられており、多くの関連書籍が並んでいます。最近、磯田道史さんの”素顔の西郷隆盛”という本を読みましたが、その中で薩摩藩と長州藩の違いについて触れてる部分がありました。何かと観念的な議論で終わる長州人に対し実生活に置き換え則物的にモノを考える薩摩人。倒幕という観念を現実に変換し具体的な作業ができた。学問=実学、行動してなんぼ、実践してなんぼという事でしょう。こういった考えができるのもひとえに郷中教育のおかげだったそうです。

 

ちなみにこの本、大変読みやすく新書ですが多くのエピソードが盛り込まれています。幕末史の流れを把握している人なら誰でも楽しめる一冊だと思います。

 

幕末期、多くの偉人を輩出した、この事実に関して忘れちゃいけないのが桜島の存在です。この雄大な活火山を目の前にしたら「いっだましいれっ、気張らんな!(魂を、気合を入れて頑張らないと!)」という気持ちに自動的になりますし、何か自分がデッカイことできんじゃねぇ―かなって気になります。

先ほどの”素顔の西郷隆盛”の中に”薩摩藩は他藩と比べ武張ったマッチョな文化”という表現が出てきますが、これに関してもやはり桜島の存在が無縁ではないでしょう。

 

これほどの活火山の麓にしっかりとインフラが整備され、それなりの規模の都市が栄えているのは世界的にも珍しいそうで。噴火したってどこ吹く風、いつもの事と受け流す、そりゃマッチョにもなりますわなぁ。昔の武士ならなおのこと、、、。

 

そういえば最近、コンビニで”平成の薩長土肥連合”なる広告を見かけました。

「・・・へぇー・・・。」

 

明治維新から節目の150年、何かと盛り上がっております。(、、、おそらく)

 

とりあえず、居酒屋や弁当屋さんなどでは、”西郷丼”というメニューがどこ行ってもやたらと目に付くようになりました。

 

  

 

 

 

雲をつかむ瞬間

数年前から日記をつけています。我ながらよく続いてるもんだなぁと思います。

 

30歳をサカイに一年が年を追うごとに早く過ぎ去ってしまう事に何かしらの悪あがきというか対策はないかと考え、行きついた答えが”日記をつける”ということでした。

 

ただ流れ去る何でもない日常を無理くりにでも意味あるものに、的なノリです。

 

毎日書く場所や時間帯が固定されてくると割と続くものです。だだ時たま2,3日書きそびれることもあり、まとめて書くこともあります。

そんな時ふと思うのがいつもとは違う場所や時間帯で、しかもまとめて書くとその内容や用いる単語、言い回しは違ってくるんだろうな~ということです。

(その場所だったから、その時間帯だったから、その心持だったから、書けたもの、書けなかったもの、みたいな、、、)

 

 

何かと文を書く機会が多いのですが、「これはうまくかけた」、「いい言葉見つけた」という時がたまにあります。(そんな時は何度も読み返しては一人でにやけています)

 

例えるなら頭のすぐ上とかにいくつかの言葉や言い回し達が雲のように漂っていて、自分の伝えたいことがちゃん伝わるであろう一番最適な表現をうまいことつかまえて書く。

 

一瞬でも気を抜くと指の間からすり抜けてこぼれ落ちるように記憶の彼方に追いやられる。そうなってしまったものをもう一度取り出すのは至難のワザです。

 

うまい表現を思いつき書く、まさに雲をつかむ瞬間というのはそう多くは訪れません。この場所、この時間帯で例えばカプチーノを飲んでる間だけはうまい表現を思いつく、いいアイディアが溢れ出す、みたいなのがあればなぁ~と思うのですが、、、。

 

しいて言うなら以前このブログで書いた頭の中の黒板をスッキリさせた直後なら雲をつかめる瞬間が訪れやすいかもしれません。

 

ちなみに日記を書くのは次の日がいいようです(もちろん人それぞれですが)。昨日を冷静に俯瞰でき、かつ、まだ記憶に新しいからです。

僕が日記を書く目的がもう一つあります。それは20年後とかに”20年前の今日、俺は何をしていて、何を考えていたんだろう”といった具合に振り返りたいからです。

それってすごいおもしろいと思うわけです。

 

よくしゃべる人

よくしゃべる人っていますよね~

 

僕自身は専ら聞き役だし、ラクといえばラクなんですが、、、 

たまに

”えっ、今!?”って時にしゃべってきます。

 

こっちが何かの作業中だったり、

何かの数を数えてる時だったり、、、。

 

そしてたいていは

”今じゃなくてもよくねぇ!?”って話題だったりします。

まぁ別にいいんですけど、、、。

 

本当に話がうまい、おもしろい人というのは

話す内容もさることながら

その話しをするタイミングまで心得ている人のことだと思います。

このタイミングだからこそってのがあります。

 

 

基本的に人は話すのが得意か、書くのが得意かで

わかれると思います。

もちろんどっちも得意という人はいるでしょうが、

それはきっと後から身に付いたもので、

生まれながらにして両方とも得意という人は少数だと思います。

 

僕自身は書く方かな~、やっぱり。

 

この話をしようと前もって準備してるものなら

大丈夫なんですが、

いかんせん、アドリブにめっぽう弱い。

 

その場は何とか繕えるんですが、

発言力は弱まり

後になってこう言えばよかったとか、

この言葉を使えばより伝わったかもとか、

一人時間差攻撃に見舞われます。(、、、一人時間差攻撃??)

 

 

こんな僕にも

まれに相談を持ち掛けられる事があります。

 

聞き上手だと思われてんのかな~と解釈していたのですが、

ある時それとなく、

なんで俺に相談したん?的な事をきいたら、

「普段あまり発言しない分、たまにの発言に重みがある、

しっかり考えてモノを言ってくれる」とのこと。

 

・・・・。

 

発言しないのではなく、

一人時間差中で

的確な言葉とか内容が思い浮かばないのであり、

たまにの発言も後で反省し(攻撃され)まくってるんですけど、

なんかすいません。

 

 

よくしゃべる人はとにかく楽しそうです。

雄弁は銀、沈黙は金

なんて言葉ありますけど、

どっちが金でどっちが銀か分からなくなります。

 

人生を謳歌するには

多少の厚かましさとともにしゃべりまくる技術も

必要なんじゃないかと思うくらい実に楽しそうです。

 

楽しいならいいんですけど、

こっちが何かの数かぞえてる時くらいは

静かにしてもらえませんかねぇ~。

  

春に歌えば

4月に入り、天気のいい日が続きました。

ここ2、3日は寒さがぶり返し、雨が降ったりもしましたが、

また今日は、大変よく晴れました。

肌寒さは若干残るものの、気持ちのいい日曜日です。

 

おろしたてのジーンズのすそを2,3回おり曲げ、

靴下はくるぶしまでのヤツ、

そんな僕の足元を見たあのコが

「春ですね」

なんてゆーもんだから、

ちょっとご機嫌な今日この頃、、、。

(40前ですが、何か??)

 

何だかよく分からなかったいつもの街路樹も

いっちょ前に白い花をつけるもんだから、

「あ、これ花咲くヤツだったんだ」

と改めて思い、これを皮切りに

やたらと咲いてる花が、目にとまるようになりました。

 

人んちのツツジだったり、校門前の花だんだったり、

足元に咲く名もない小さな花だったり、、、

 

「春ですね」

 

そういえば、ちょうど一週間前花見をしました。

今日以上に天気が良く、しかも暖かく、

chayの”あなたに恋をしてみました”とsumikaの”Lovers"が

交互に繰り返し流れてるような、絶好の花見日和でした。

 

缶ビール片手にそこいらのベンチでサクッと、

とういうようなものをイメージしていたのですが、

誘ってくれた友達のおかげで

シートに腰を落ち着け、手作りのお弁当もご馳走になるという

本格的な花見を楽しむことができました。

 

こんな日はスピッツ日和でもあるな~

 

などと思い、その瞬間からなぜだか

”冷たい頬”が頭の中で流れていました。

 

素敵な時間をありがとう。桜舞う川沿いの風景と友達に感謝!

 

 

幸せは途切れながらも続くのです(スピッツ、”スピカ”より)

  

私の頭の中の黒板消し

"ラーフル”という言葉、一般的ではないんですね~

その事実を知った時はけっこう衝撃でした。

 

一般的には”黒板消し

まーそう言ったりもしますし、別にいいんですけど、、、

 

ラーフルはラーフルだろうと!

小学生の頃、ラーフル係りってあったし。

 

 

ラーフルはオランダ語で

「ほつれ糸」や「こすること」を意味するそうで。

 

薩摩藩主 島津斉彬はとても開明的な人物で

蘭学にも熱心、その影響、名残りではないかということらしいのですが。

 

だっだらもっと他にも鹿児島県人にしか通じない

オランダ語由来の外来語があってもよさそうなのですが。

なにゆえラーフルだけが生き残ったのか、、、。

 

ちなみに、

黒板消しっておかしくないですかねぇ~

 

黒板は消えてないし、消えてるのはチョークだし。

 

黒板拭き、もしくはチョーク消し。

消しゴム的に言えば

消し布、あるいは消しクッションだと思うのですが、、、。

もうでも言葉として定着しているので、別にいいんですけど。

 

 

本などを一定時間読んでいると、

疲れてきます、気が滅入ってしまいます。

また明日、でもいいんですが続きが気になる、

読みたいは読みたい、そんな時はどうするか。

 

肩や首をグルグルする、背伸びをしたあと脱力する、

ちょっと歩く、場所を変えるなどです。

(普通ですいません)

頭の中がスッキリとし、

再び読書に没頭することができます。

 

考えてみるとこういった行為は

まるで黒板消しのようだなぁと思うわけです。

 

頭の中がスッキリしたからといって

全部忘れたわけではない、ある程度は覚えてる。

 

黒板消しで授業の内容が消えたからといって

慌てることはない、ノートにとってある。

 

黒板消しで消すということをしなければ、

本でいうなら気持ちよく次のページはめくれないし、

授業でいうなら前の授業とごっちゃになるし、スペースもなくなります。

 

もっと分かりやすく天竺鼠風にいうと

肩や首をグルグルするという名の黒板消しで、

頭の中という名の黒板をスッキリさせたとしても、

知識とか記憶という名のノートにしっかり書かれているから、、、

あーー上手いこといかんかったぁ!

 

こんな感じです、伝わったでしょうか?

 

とにかく、

なんでも詰め込みはよくありません。

生活の中で、ボーっとする時間や脱力する時間は

必要不可欠だと思うわけです。

 

幸せとは

backnumberの瞬き、を別に意識したわけではありませんが、、、。

 

幸せとは、苦労や努力の先にあるものだと

長い間思っていましたが、

最近、苦労の先には苦労しかないのではと考えるようになりました。

 

苦労したから、

努力したから、

耐えたから、

いいことが待ってるというのは、単なる思い込みにすぎず、

本質的にはあんまり関係ないのではないかと、、、。

 

要は苦労や努力、しようがしまいが何かしら得たものを、

やがて来る未来においてうまく生かせるかどうかだと思います。

 

でもそれって、超ムズいですよねぇ~

 

ましてや

直面してる苦労や取り組んでいる努力が

正しいかどうかなんて、今は分からない、、、。

 

 

苦労の先には苦労、、、だとしたら

幸せの先は幸せ、ということも成り立ちそうです。

 

幸せな日々を積み重ねていけば、当然未来も幸せですわな~

 

考えてみれば、

朝目覚めたその瞬間、気持ちが充実していれば、

素晴らしい一日が送れるというものです。

これと同じです。

 

よくある自己啓発本と似たような結論で大変恐縮ですが、、、

 

幸せとは、(細かいことはおいといて)

今、幸せである、と決めちゃう、のっけから、決定事項です、

とりあえずこれだと思います。

 

最初に決めちゃえば、

スコトーマ、心理的盲点が働き、

自分に都合の悪い不幸せなことは、見えなくなります。

(訓練が必要かもですが)

 

もう一つ、

今に満足してしまうと努力しなくなるのでは、

という不安が生まれ、今満足してはいけないという気持ちに

なってしまうかもですが、これも単なる思い込みです。

 

満足感や充実感に包まれていれば、

さらに良くなろうとするものですし、

能率や生産性は段違いにいいはずです。

 

安い缶ビールをお気に入りのグラスに注ぎ、飲む!

今日もうまいぜ!!

つまりはこういうことです。

 

ところで

backnumberの瞬き、すごい曲だと思います。

冒頭で幸せを定義しちゃったよ、みたいな。

 

こういういい曲たちをスマホ一つでいつでも

聴きたいときに聴ける、幸せだなと思うわけです。

 

桜(ショートショート)

開花予想日が来ても、桜は咲かなかった。

早々に予定を組んでしまったのだろう、花のない花見のための

ブルーシートがちらほらあった。

「可哀想に」

思ってはみたが、まあ仕方ない。

ずっと曇天の日が続き、気温も低いままだった。

 

それから二日程過ぎて、ようやく晴れた。

気付けば川沿いの桜はいっせいに満開になっていた。

 

その後の三日間は、大変に良く晴れた。

週末とも重なり、かなりの賑わいをみせた。

時折の風は強めに吹くものの、

「寒い」

という印象は与えなかった。

花見は寒い、そこが難点だと決めつけていたが、今年は違った。

出店の焼きそばのソースの匂いが鼻をついたりもした。

 

暖かく、穏やかで、平和で。

 

それからの二日間は、また天気が悪くなった。

というか荒れに荒れた。

 

まさに春の嵐であった。

 

明け方に雷が鳴ったりもした。

そういえば昨日かその前か、青空の遠くのずっと向こう側の方に、

モクモクっとした雲の見本のような雲があったのを思い出した。

 

雷が通り過ぎると、ただもうひたすらに雨が降り、

風がその雨とともに窓を何度もたたいた。

 

桜は散るだろう。

 

嵐が去り、青空がのぞき、日差しが戻り、川沿いに行ってみると

何事もなかったかのように桜は、変わらず平然と咲き誇っていた。

場所取りのブルーシートがいくつもあった。

 

何一つ変わっていない桜を、違う気持ちでしばらく見入り・・・。

 

散りゆくさま、その儚さに美を見出し、、、云々・・・。

桜はおそらく、そんなことは知らない。

 

咲いてる間は、咲いてる以上は、ただただ力強くある。

 

命の儚さ、ではなくその強さを知る。

人間もまた・・・。

 

時折の風は相変わらず強く、、、

いちいちその度に、小さく、花吹雪が舞った。(了)